(現場から:2)残業月200時間、命絶つ 2014衆院選(2014/12/7 朝日新聞)

飛び降りたのは、本店ビルの7階からだった。

 2012年10月18日午後2時ごろ、熊本市に本店のある肥後銀行の男性行員(当時40)が勤務中、身を投げて亡くなった。

 この日の朝6時過ぎ、「行ってきます」も言わず出て行った男性の姿を、妻は今もおぼえている。


 妻によると、男性は本店で手形などの業務システムを更新する作業の責任者だった。更新の期限が迫った12年夏から帰宅が遅くなり、午前0時過ぎに帰宅し、6時台には家を出る日が増えた。10月に入ると、午前4時半に家に戻ってきたこともあった。

 男性から笑顔が消えた。妻や3人の子どもが話しかけても上の空だった。食が細り、昼の弁当には手をつけずに返した。身長は170センチ台後半あったが、体重は40キロ台に落ちた。たばこを再び吸い始めた。

 死亡前1カ月間の残業は200時間を超えた。休日は2日だけだった。

 パソコンで打った遺書は、会社の同僚らにわびる内容が中心だった。

 「期日までに実現できると思っていましたが、営業店の方へ多大なるご迷惑をおかけしてしまいました。私自ら収拾に努めなければいけないのですが、力が残っておりません」。実際はシステム更新は計画通りだったが、すでに男性は心のバランスを失っていた。

 最後に少しだけ、家族に向けた言葉があった。

 「家族へ こんな父親で申し訳ない」

 妻の申し出を受けた熊本労働基準監督署は「極度の長時間労働でうつ病になり、自殺した」と13年3月、男性の労災を認めた。

 妻は語る。「同じことが二度と起きてほしくない。長時間労働のない国はつくれないのでしょうか」

 安倍晋三首相は「雇用を100万人増やした」とアピールする。だが、働き手の命を守る仕組みづくりは遅れている。(牧内昇平)

 なぜ夫は死を選んだのか――。肥後銀行に勤めていた男性行員の妻は、労災認定を受けた後の2013年6月、損害賠償を求めて同行を相手取って提訴した。

 亡くなる2カ月前の12年8月、男性が銀行に申告していた残業時間は約40時間だった。だが、職場のパソコンに残った使用履歴などを調べると、実際には8月の残業は優に100時間を超えていた。

 勤務時間は行員の自己申告に任されていた。実際に働いた時間より少なく申告した月が続いており、原告の代理人を務めた松丸正弁護士は「本当は何時間働いたのか、銀行は把握する責任がある。それを怠ったことが亡くなった最大の原因だ」と指摘する。

 今年10月、熊本地裁は計1億2890万円の支払いを銀行に命じた。判決を受けて肥後銀は「労働時間の管理を経営の最重要課題として取り組む」とし、パソコンの使用履歴から勤務時間を正確に把握し、残業が多い行員は上司らが面談するなどの防止策を進める。

 過労死や過労自殺の労災認定は後を絶たない。13年度の労働力調査によると、会社などに雇われている働き手の約8%にあたる430万人が、週60時間以上働いている。国は月80時間の残業を「過労死ライン」としており、大量の「過労死予備軍」がいる計算だ。

 東京都の元システムエンジニアの男性(32)も、「過労死ライン」を超えて働いたことがある。

 専門学校を出て三つのIT企業を渡り歩いた。働きすぎで心の病気になり、いずれも辞めた。今は無職だ。

 4年前まで、都内の中小のIT企業で働いていた。職場は「裁量労働制」をとっていた。仕事の配分や何時間働くかの判断を働き手に任せることで、成果をあげようとする働き方だ。

 しかし、男性はチームの一員としてシステムの開発にあたっていた。一日の仕事は工程表で前もって決められ、自分の裁量で仕事の配分を決めることはほとんどできない。仕事に追われ、朝9時の出勤から夜10時以降まで働き続けた。

 入社して3年たったころ、気分が落ちこみ朝起きられなくなり、病院で「うつ状態」と診断された。体調を壊すほど働いても、月収は35万円を下回った。裁量労働制では追加の残業代は出ず、深夜手当は夜10時を過ぎないとつかないからだ。

 単純なプログラミング作業しかできない新人も、同じ制度で働いていた。「残業代を払わない方便として裁量労働制が使われていた」と振り返る。

 だましだまし働いたが耐えられず、退職した。

 男性の今の気がかりは、安倍政権が進める労働時間規制の緩和だ。働いた時間と関係なく、成果で賃金を払うとする「残業代ゼロ」となる働き方が、厚生労働省の審議会で議論される。

 労使で合意すればいくらでも残業させられる現在の制度では、割増賃金の支払い義務が残業を抑える数少ない歯止めだ。しかし、「残業代ゼロ」制度の下では、それもなくなる。

 働き手の立場はどうしても会社に比べると弱くなる。男性はいう。「心置きなく、会社は社員を無制限にこき使うだろう」

 ■働きすぎに歯止めを

 過労死は1980年代後半から社会問題とされてきたが、20年以上たっても一向になくならない。働きすぎで心を病んで労災請求する人も大きく増えている。

 今年6月、過労死の実態調査や防止策の推進を国に義務づける「過労死等防止対策推進法」が、超党派の国会議員による議員立法で成立した。今回の衆院選でも、「過労死ゼロ」をめざす考え方に対し、異を唱える主要政党はない。

 だが、働き方のルールづくりをめぐる議論は、本当にその方向に進んでいるのだろうか。安倍政権は、労働時間の規制を外す「残業代ゼロ」となる働き方を導入しようとしている。

 本人の同意が必要というが、立場の弱い働き手が会社から「同意」を迫られれば、断り切れないかもしれない。過重な仕事を頼まれて嫌とはいえないことは、どの職場でもある。長時間労働が当たり前の社会では、働きすぎをさらに助長させる恐れもある。

 過労死防止法ができたのは一歩前進だ。だが、この法律に働きすぎを直接規制する条文はない。具体策の議論は、これからだ。

 例えば、欧州連合(EU)諸国では、退社から翌日の出勤までに連続11時間の休息を確保する「勤務間インターバル規制」がある。また、残業を含めても働く時間を週48時間以内におさめることが、EU諸国では原則になってもいる。

 働きすぎによる悲劇を防ぐために、労働時間の規制緩和よりも、長時間労働の歯止めづくりにまず取り組むべきだ。(牧内昇平)

 ◆キーワード

 <「残業代ゼロ」制と裁量労働制> 「残業代ゼロ」は、働いた時間にかかわらず、成果に応じて賃金を払うとする制度。残業や深夜、休日の割増賃金が出なくなる。政府案では「年収1千万円以上の高度な職業能力を有する人」が対象だが、経済界には拡大を求める声がある。

 裁量労働制は、労使で前もって想定した労働時間に応じて賃金が払われる。実際の労働時間が想定を超えても、追加の残業代は出ないが、深夜や休日に働いた場合の手当は通常通り支払われる。年収要件はない。